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東北記録その6

8月9日(火) 晴れ


今朝は 朝食後 先生と海岸沿いを歩く

3月以降、度々訪れている先生は今回新たに
貝塚を発見したのだそう。

それは 宿泊した民宿を出てすぐの高台にあった。
津波で露わになった地層断面に すっと白っぽいスジが
遠目で確認できる。
アサリやカキ、貝紫のイボニシも勿論あるが、結構グルメな貝がたくさん。

かつて此処に住んでいた縄文人も、度々の津波被害に
遭っていたらしい。それは貝塚(=生活拠点)が、はじめは
海岸沿いにあったのが、氷期にさしかかり海水面が下がったにも関わらず
生活拠点をかなり高台に移していることなどから推測できるのだそう。
ちなみに、里浜貝塚はかなりの高台に位置していて、今回
まったく津波の被害はなかった。

それに、島のあらゆるところに お地蔵さんがあって、それは
過去の津波で被害にあった方々の慰霊と、伝承の意味があったという。
島の人たちの迅速な避難行動は、その伝承の賜物でもあったのだ
ただ、時代は過ぎて 漁業を生業とする人々は やはり便利さゆえに
海岸に住むことをためらわなかったのだろう..

過去は今に生かすためにあるんだ と思う。


・・・

今日は 昨日の続きの土器洗いを少しした後、ヤスオさんが
デートのお誘いに^^
先生は菅原さんと今後の打ち合わせ、そして今日の夕方に
私と先生は宮戸を発つことになったので、それまでの間
ヤスオさんが松島、気仙沼などを車で案内してくださるという。


ヤスオさんは実弟を気仙沼で亡くされていた。
カツオの競りで大変な賑わいだったであろう漁港は、
呆然とした感じで まばらな船が何隻かあっただけだった

造船関係の工場を経営されていた弟さんは、その時工場に居て
逃げ遅れたのだそうだ


5月から営業再開していました!と 漁港近くの回転寿司屋のイタさんが
宮戸から来たヤスオさんに いろんな話を聞いている。
この回転寿司屋にヤスオさんはよく来ていたらしく、懐かしい話と
久しぶりの寿司が美味いのとで 上機嫌に話していた。


健康は「目的」ではないんだ、健康は何かをするための「条件」だから!
健全な身体に健全な精神は宿るんだょな
と、今年喜寿になる自分を励まし、健康に産み育ててもらった両親と、
この土地の自然に感謝していることを、話すたびに何度も何度も口にしていた。
それから 行くところ行くところ、ヤスオさんは出会うすべての人に話しかける。
懐っこい笑顔と口上に 話しかけられた人も 思わず笑顔
寅さんみたい。

3月から辛い顔一つ見せない、とヤスオさんのことを先生が言っていたけれど
ヤスオさんは 本当に達観しているのかもしれない




資料館に戻ったら 先生は帰る準備万端。
急いで荷物を背負い 再会を誓って皆さんとお別れ。

ヤスオさん、お母さん、ヒロキさん、島のみなさん、資料館のみなさん、
先生、菅原さん、本当にお世話になりました。有難うございました。



仙台から東京に戻る電車で、この3日間の出来事を反芻しつつ
先生と話す。
先生は 赴任してから3年間で、宮戸の風土記的なものを作ろうと
ヤスオさんたちから この土地に脈々と伝わってきたいろんなことを
聞き出しては書きとめてこられたそうだ。
その貴重な資料が流れてしまったのはとても残念。


今回、私が縄文の研究者である先生との再会を楽しみにしていたのには
もう一つ 聞きたいことがあったからだった。
日本列島で人類がはじめに利用した繊維植物の一つ 大麻について。

原発事故から、エネルギー自給について考えるようになり
バイオマスとして有用な 繊維植物はないかと調べていた矢先
世紀の大発見的に 見つけたのが、大麻だった。

もちろん何年も前から その動きはあったのだけれど、アンテナの全くなかった
私は完全に無知だった。

大麻(=ヘンプ)は日本列島の在来植物であり、人類が 繊維植物を発見して
それを衣食住に使うようになった縄文時代から、大麻は強度のある繊維として
多用途に使われてきた。現在大麻と言えば麻薬的利用の印象しかないけれど、
戦後 日本がGHQの統制を受けるまでは、日本の各地に麻畑が存在していたという。
土地を選ばず、無肥料、無農薬でしかも100日で育つメリットがあるだけでなく
麻の実(七味唐辛子を構成する一味)や油の栄養価の高さ、バイオマスとしての
有用性を主張し、赤星氏を中心とした日本麻協会がさまざまな活動をされている。

奈良晒の文化の残る奈良で、大麻というのは面白いではないか〜
コレダ!!と思った。

日本各地の縄文遺跡からの出土例を御存じだろうし、きっと衣食住のいろんな
部分で取り入れてきたに違いないから そのあたりを先生に伺いたかったのだ。




あまり詳しくは無いけれど..という前置きで、

「繊維植物としては 断然カラムシだと思うけどな その辺に生えてるよ」


カラムシ 苧麻 アオソ ラミー
からむし織りといえば織姫制度で有名な福島昭和村だけれど、
あんぎん織り(縄文時代の織り方)で使われるのは そういえばカラムシだった。
ヘンプは 繊維意外にも多用途に使えるメリットがあるけれど
繊維植物としては 実はカラムシの方が本来馴染みが深かったのだ。


大麻(ヘンプ)、亜麻(リネン)、苧麻(ラミー)、黄麻(ジュート)・・・
現在私たちが普段手にする「麻」繊維のほとんどは おそらくリネンで
日本の高温多湿な風土での栽培は難しいため、ほとんどを
ヨーロッパや中国から輸入していると聞いた

奈良晒についてもう一度調べてみると、原料は大麻だと勝手に思っていたが
それは大きな間違いで、このカラムシだったのだ。
奈良晒だけでなく、越後上布、小千谷縮も然り。

なぜ奈良晒が奈良の特産になったのか、いつからなのかは はっきりしないが
寺社の礼服の需要に応えるところから始まったようだ
織物としての利用が爆発的に増えた江戸時代、カラムシの最大の産地は
越後、出羽、会津で、米沢藩の上杉謙信がビジネスとして、カラムシを繊維に
したもの(アオソ)の専売をはじめたらしい。
その主な出荷先が奈良であり、「奈良町の家で十分の九は『布一色』で渡世している」
といわれるくらい かつては盛んだったようだ。

しらなかった。。


そもそもの着眼であったエネルギー自給の視点からは
随分離れてしまったけれど、カラムシ、面白そうである。


・・・

今回の旅は この後、日本民藝館→神奈川は大磯の師匠のもとへと続く



次につなげるために 記録することは必要だったけれど
すべては これから、だと思う


社会のあらゆる歪みがいろんな局面で出てきているけれど
この震災、原発事故を 20代の日本人として経験するというのは
タダごとではないぞ という気がしている

管から野田に変わっても、東北の眼は冷ややかだ
この国の行く先にどんなビジョンがあるというのだろう
結局、自分たちでやるしかない、みんなそう思っている

自分の描くビジョンは?
国が情けなくても、それでも世界の車輪は見えない力で動くのだとしても、
小さな発信をしていくしかないのだ..と思う。






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東北記録その5


8月8日(月) 晴れのち曇り


目覚めて すぐ、海岸にいってみた。

凪いだ海
波にまかせてひと泳ぎ...できたのに。


基盤となるコンクリートだけが家のあった位置を示していて
家の中で一番狭い空間のトイレや風呂がポツンポツンと
虚しくそびえ立っている。

白けた顔で 海はいつものように変わらない仕事をしている感じで
こちらを見ていて、マトリックス的な世界に操られているような...
無力感というか、輪廻というか、果てしなく突き抜けてしまう存在に
襲われる。

こういうとき、究極に自分のちっぽけさを感じる
ネガティブでもポジティブでもない意味で
宇宙の中で 自分という生命体を捉えたとき、それは笑えるくらい
宇宙史を構成する1点でしかないんだな と思う



・・・

今回、ここに来る前にとりあえず いろんな状況を想定して
長靴、軍手、自分の飲食、作業着、などは持参。
何が私にできるのかは ここに身を置いてみないと分からないと思った。

先生は 菅原さんと県庁で会議に出席ということなので
私は資料館でドキアライ・・土器洗いをさせてもらうことになった。

資料館では週末をのぞいて毎日、島の女性達が仕事として
この土器洗いをされている。
この日は、フルメンバーだとおっしゃっていたので、総勢20名ほど。

かつて先生も調査された里浜貝塚の発掘時の遺物が
コンテナー200個分は軽くあったと思う。
野蒜地区の建屋に保管していたところ、津波で泥をかぶって分類も
バラバラになってしまったらしい。
資料館が再管理するのに、もう一度洗いなおす必要があるということで
菅原さんの働きで 雇用が生まれた。


学生の頃、よく発掘のバイトをしていた。
地層の断面や、遺構や出土状況を図面に記録したり、土器洗いをしたり
(実際には土器だけでなく、石器や瓦や木製品など出土遺物全般を洗う)
遺物に出土地点を記録して、パズルのように接合して完成形にして
図面をとったり...結構たのしかった。


だから、土器洗いができるのは嬉しかった。
それに島の女性たちが マタ楽しくて!
結局 土器洗いをしていたんだか、話をして笑いすぎただけなのか
分からなかったけれど・・
初めて会った上に、奈良からぽぃっと来た青二才に どの人も温かい。
きっと過酷な避難生活で それぞれに助け合うこと、相手の状況を感じ取ること
が身体に染み付いている..そんな感じもした。


後ろは振り向かないよ 振り向いたって変わらないっちゃ!
女性特有の強さなのか、明るさなのか 分からないけど
少なくとも、この土器洗いの現場は 無敵な感じだった(!)
私も あえて「今の状況以前」のことは聞かなかった。
それでも 話の合間あいまに いろんな話を伺ったけれど
つよいな〜 つくづく思う。



この日の晩は 夕方に地元の漁師さんが さっき潜って獲ってきた!
と 10cmはあるアワビを下さった!!それを、民宿のおかみさんが
贅沢にもさしみにしてくださり、内蔵までしっかりと頂きました。
とっても、美味しかった。
感謝。





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東北記録その4



ここの土地のものは何もないですけど..

民宿のおかみさんが、4膳分の食材を調達して下さった。
この民宿は、ヤスオさんの民宿のあった隣の海岸に位置しているが、
やはり目の前が海、海抜ゼロ。
それでも、ほとんど完全に近い形で無事だった様子。


国からの支援で現金収入が入り始めたことと、家の流された各家庭も
仮設生活が始まったことで、不便さというものはある程度は無くなった様子だった。
買い物は 車を30分走らせれば、スーパーもあるし、ニトリもある。

・・・
貯金だって、一生懸命働いてきたんだもの
家を一軒もう一度建てるくらいはあるょ

だけど 陸の瓦礫はある程度きれいになってきたけどさ
海の中はま〜だ ぐちゃぐちゃだもの。
漁なんて いつできるか分かったもんじゃないさ。

こないだも 東京やら埼玉からダイバーだっちゅう若いもんが
ボランティアで海の中を調査しますって来てくれたけどょ
何にもならないんだもの、わしが潜った方がなんぼかええと思ったょ(笑)


ほんでもよ、海苔はもうあきらめたっちゃ
年齢的にも またイチから(設備を)揃えては・・・無理だでね

だけど、わしは やっぱり漁師だから。
海苔は無理でも 今度は若布に挑戦するって決めて研究中だっちゃ

・・・

問題は 風評被害。
漁業が本格的に再開できたとして、福島以北に広がる放射能の影響が
まだ ここでは誰にもわからない。

話してくれたヤスオさんの甥御さんは、海苔漁師一筋で生きてこられた。
もしも、風評被害で 漁業ができないのなら、いくら不便なく生活できたとしても
自分がここに居る意味は無いと言う。


この松島の絶景は、ここに生まれ、海とともに育ち、海の恵みを仕事に
生きてきたわしらが 守ってきた。
松島は 国の遺産であろうが 文化財であろうが、ここで自然とともに
代々暮らしを営んできたからこそ意味がある




まさにそうだ。

こんな風土が、日本にどれくらい残っているのだろうか。

歴史的に見れば日本人は 地震や津波から何度も何度も立ち上がり
その度に 復興・再生してきて今の私たちがあって。
文化の進んだ土壌で培養されてしまった私たち
自分で火も熾せない、水も調達できない、自分の生きる土地に
どんな恵みがあるのか まったく知らない。
毎日頼り切ってるPCからは 何も生まれやしないのに。
こんな私たちが これから再生する日本は、どんな日本になるのだろうか


国や県は、高台地域に「○○タウン」的な「安全都市」を作る計画を進めつつあるようだが
また 日本の本当に大切な財産を 失ってしまう気がしてならない。



長い一日は終わり 布団で眠れる幸せをかみ締める。

夜の海の音は 少し異様で
あらゆるものを浄化してるような 魂が行きつ戻りつしているような...



明日は資料館で「ドキアライ」。


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東北記録その3


仮設住宅は先に電話で聞いていたように
やっと7月末に整い、入居が始まっていた。

それまでの5ヶ月間、島の小さな小学校の体育館での生活。
どんなに大変だっただろう

だけど、ヤスオさんはちっとも変わっていなかった。
サングラスにカウボーイ形の麦藁帽をかっこよく被って登場。
まだいろんな所から来てくれる炊き出しボランティアの方たちを
見送りに出てこられたところだった。


あ〜!ひしこさん、よ〜く来てくれたぁ
今朝ね、野菜頂いたよぉ お母さんと、これなんていう野菜だベなって
ご飯といっしょにね、おいしかったょ
(キタさん畑のツルムラサキのことだった)

お母さんも元気そうでよかった。
地震直後 小学校に島民のほとんどの方が避難はしたものの、
島をつなぐ唯一の橋が落ちてしまい島は孤立状態になっていた。
そんな矢先、お母さんがヘリで病院へ搬送されたと聞いていたので
元気そうな姿に一安心。

非難当時約900人分のおにぎり握りで疲れ果ててしまって
倒れたのだそう。

ヤスオさんの変わらない明るさは、お母さんのためなのかな、と今になって思う。
お母さんは やはり疲れと、傷と、不安と、いろんなものが心の中に
渦巻いてるように感じた
瓦礫処理の仕事を終えた息子さんが、島を車で案内してくださったのだけれど
民宿のあった場所から 海を眺めるお母さんの横顔が忘れられない。


ひとつ良かったことは、
車で案内していただいているときに、思いがけずヤスオさんの愛船が見つかったこと!
船番の情報で、遠く離れた海岸に漂着していたのは聞いていたそうだが
あきらめて放棄申請したばかりなのだと言う。
あの津波の波をくぐり抜けたとは思えないほど船はきれいで、ヤスオさんもお母さんも
息子さんも、本当に信じられないと喜んでいた。
まだまだ乗れる船だけれど、今の状況では管理ができないから、放棄の取り消しは
しない、漁協で使ってくれるなら、船も本望だろう。と。

ヤスオさんが 愛船をトントン!とたたく手が、何とも なんとも言えず..
相棒への今までの労わりと、愛情と、姿を見せてくれたことへのうれしさと..

船もヤスオさんに、「ありがとう」を言うために此処に姿を見せたに違いない。


この日の晩は、営業を再開している数少ない民宿で、先生とヤスオさんと、
海苔漁師のヤスオさんの甥御さんと酒盛りをした。








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東北記録 その2


3年前、私は奥松島宮戸という島に、ある目的で訪れた。

かのクレオパトラも愛したという紫色
貝紫染めの旅。

かつて岡村先生が調査された宮戸島にある里浜貝塚。
貝塚とは、今でいうゴミ捨て場のようなものなので
当時(縄文人)の食生活が記録されている。
そのなかにたくさん包含されていたイボニシ貝は
現在の宮戸沖でも採集できるそう。
あまり美味しくはないので、漁目的で獲ることはほとんどないと言っていた。


先生が名誉館長となっている宮戸の資料館では
古代染めとして、このイボニシ貝で貝紫染体験を
行っていた。
イボニシ貝には、パープル腺と呼ばれる微量の黄緑色の腺があって
このパープル腺、 たとえば服などに付くと(紫外線に晒すと)
見事な紫色に発色するのだ。 
当分生臭さに耐えなければいけないけれど.. 

縄文人が普段食べていて、このことを発見しないはずがない
ということで、日本列島における染の起源のひとつとも言われている


現資料館館長の菅原さんが、後に冷凍のイボニシを送ってくださり
嬉々として また貝から微量なパープル腺を取り出していたのだけれど
当時実家暮らしだった私は クサイクサイと大変なヒンシュクを買っていた


・・・
この貝紫染めを体験するべく、岡村先生と再会するべく訪れたのが3年前。

先生の定宿で、目の前に美しい海が広がる民宿を経営していた
ヤスオさんは 宮戸の長老というか リーダー的存在で、
奈良からやってきた私に それは良くしてくださった。

70を過ぎたとは思えない元気さで、普段は知る人ぞ知る奥松島の
絶景、嵯峨渓の観光船の船長(自身カリスマ船長と仰せダ)、また
時季がくれば 若布と海苔の漁師に。(この若布と海苔は絶品で3年間
欠かさず毎年送ってくださるのが楽しみだった)

とってもステキな笑顔と、得意のどどいつが飛び交う夜の宴会が
それはもう楽しかった!

心の深いところに触れてくるあたたかさ、この土地をこよなく愛し、
海とともに生きてきたヤスオさんと 出会えたことが私はとっても嬉しかった。



・・・
夜行バスで奈良→東京、はやてに乗って東京→仙台
ここまでは3年前と変わらない。けれど
今回はやてが福島の綺麗な稲海を通り抜けるとき、
ここに暮らす農家さんたちの涙がきこえるようだった


仙台から、奥松島の宮戸へ行くには、本来 仙石線で
野蒜駅まで行き、そこから私は徒歩だった。
松林を抜けて、漁場を眺めながら ヤスオさん自慢の遊歩道を通って
1時間半ほど歩けば、島の資料館にたどり着く。
見ただけで「訪れ者」だと分かるのだろう、すれ違う人すべてが
「どこからですか?」と声を掛けてくれたのを覚えてる。

だけど今回の津波で仙石線は今も復旧見通しが立っていない。
先生と私は 東北本線で松島へ向かった。

ところどころ、ビニールシートで養生された屋根や壁が目に入ってくる。
たびたび 宮戸へ足を運んでいる先生から、ヤスオさんの話や民宿の話
島の状況などを聞いた。


松島駅には、資料館の館長を勤める菅原さんがお忙しい中迎えに来てくださった。
ふらっと訪れた私などに、菅原さんのこの5ヶ月間のご苦労は計り知れないが
後で 島の方が「彼は ほんっとにがんばってくれたんだ」とおっしゃっていた
言葉で、少しだけ慮ることができる
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1070/20110514_01.htm



「そういえば、こないだ来た○○も 無言だったな」

車で島に近づくに連れて 気づけば 言葉がでなくなっていた
3年前私が歩いたはずの道が、林立していた松林が、ヤスオさん自慢の遊歩道が
変わり果てて 記憶と比較できなくなっていた。






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東北記録


波の音はとても静かで、心地良い。


陸の無残な光景とのギャップがありすぎるのか、
何度自分の眼で見ても、この現実を表面的にしか
捉えられていない気がしてしょうがなかった。


8月7日 快晴

岡村先生と 仙台の駅で待ち合わせるのに、まだ随分
時間があったので、七夕祭りを拝見。
たしか仙台駅周辺も地震の被害は大きかったと思ったけれど
3年前に来た時と、建物や道路に何ら変わった様子は見られない。

アーケードの中は、復興に向けたたくさんの願いを込めた短冊と
人々の活気とが絡まって、ものすごいエネルギーだった。
モールの中の若い店員さんに話を聞いてみた

奈良からですか?!
私の友達夫婦は、原発を恐れて奈良に引っ越しましたょ..
さすがにみんなびっくりしましたけどね〜
もぅピリピリしちゃってて。

・・・
そうでしょぅ、被災したとは思えないかもしれないですけどね、
直後は大変でしたょ もう。
ついこの間まで 天井から白い粉降ってましたから!(笑)
みんな表面的には 建物も人も、建て直してますけど
中身はまだまだね〜...
こうやってお化粧して綺麗な服きて お店に立ってることが なんだか
いいのかな〜〜って。ずっと思ってました。
だけど、買い物ってやっぱり楽しいじゃないですか〜
だから少しでもいい買い物して元気になってもらえるようにって今は思ってて...


仙台駅で財布が見事に壊れてしまったので、記念に財布を買うことにした。
いい買い物をした。と思う。


岡村先生と2年ぶりの再会
新潟での発掘現場で真っ黒に日焼けしたとは伺っていたが
見事なこんがり具合 奈文研の狭い部屋で仕事してるよりも
随分健康的な感じだった。
先生の頭の中には常に2,3個の物事が進行してる。
東京、函館、沖縄、奈良、
仙台に来るまでの先生の1週間分のスケジュール。
私の松島行きのスケジュールとかみ合ったのは奇跡的だった。




続く





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東北へ。



...

3日前からやっと仮設に入れたんだょ
ホントありがたくってね 水道も電気もトイレも使えるんだ
お母さんとね、息子とね、3人で仲良く暮らしてるょ
息子はね、給料稼ぎに 瓦礫処理のしごと
ま〜っくろに日焼けしてがんばってくれてるょ
今 買出しに連れて行ってもらって、帰ってきて一杯頂いてたとこ!

こないだね、NHKの毛利さんを嵯峨渓へ案内したんです
わたしの船は無くなっちゃったから 仲間の船借りてね
まだまだこれからだけど
日本だけじゃなくて世界中から支援していただいててね
有名な建築士の方たちが 復興計画に関わってくださってるんだょ

奈良の方からも、郡山の金魚すくいのボランティアの方が
きてくださって、盛り上がってね、お坊さん達もきてくださった。



...


復興に向かうエネルギー

底面を知った確かな強さ



「家族」という原点の絆


希望と不安と途惑いと


それでも、またスタートできる
家族がいるから 踏み出せるんだと思った


自分の原点は家族にあって
家族の原点は 生まれ育った土地にある
土地をまもることは 自分の原点をまもることなんだ


自分の原点
忘れていないだろうか



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