create a day.
NEW YEAR
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

- - -
安曇野 倉敷

絨毯のすすめ、でアパートの方から苦情をいただいてしまい…(;´Д`)
いよいよ 作業場を確保しなければいけないな、という
状況です。

本当に、有難いお話で
安曇野のFご夫妻宅の、基本的な設備が完備された1室をお貸しいただける。。
ということで、具体的な打ち合わせをしに、安曇野へ。




ずっと再会したかったサランちゃんと 本郷先生とも一緒に楽しい夕食ができて
本郷先生の壮大なプロジェクトもお聞きできて..
もちろん 本題の安曇野暮らしの実現についても
建設的なお話ができて…

安曇野暮らしは、私の中で一歩も二歩も、現実に近づいたのでした。

翌日は、本郷先生の工房_本郷織物研究所にて
ちょうど昨日かさ上げしたばかり!という藍甕を見せていただけました♪
なんてタイムリー!
本郷先生のお話から、昔安曇野の北の方でも藍を栽培していたこと、
でも京都から渡ってくるすくも藍の質が良かったので、信州の藍と混ぜて建てていたこと、
そして、工房でもう一つ、冬を越した昨年の甕が建っている…と
アルカリを少し高めにして、氷点下の冬をそのまま置いておくと、ちょうど夏を迎えて適温になると
ひとりでにムクムクと建ち始め、ふすまを入れると立派に建ってしまう!と。びっくり!
現に、その甕でサランちゃんが絹糸を 美しく濃く、染め上げていました!

・・・!写真撮るのを忘れたー(T_T)
美味しい昼食まで ちゃっかり御馳走になって、
盛りだくさんな安曇野・松本の旅を青春18切符の鈍行帰路で反芻しつつ..


その翌週のこと。
飛び歩くのが止まらない私は、倉敷―岡山ー智頭を青春18で移動。
倉敷民芸館、考古館を堪能。。


ふと立ち寄ったジェラート屋さんで知り合った女性に連れられて
作家作品のセレクトショップ Bjornへ。店主 ハイジさんと 出会いました。
人が集まる空間
ハイジさんの求心力
工房になる場所を探している。。。との話に、「岡山、来なよ!」
「うちの隣の家、空いてるよ、一軒家2階建て。観光地だし 仕事もあるし。
なんたって、ここは人が面白い!こんなに楽しくなると思わなかった。」
こんなことって、あるー??
私の周りで何かが動いています。

来月は 敷物の伊藤久仁子さんを訪ねるし
9月には 竪機を譲っていただけるという 角先生の工房へお邪魔するし
まだまだ 状況は動きそう。

師匠にも相談してみよう。
なんて 有難いお話なんだーーー!と叫びたい。

一生懸命、全力で、楽しもう。


 
 comments(0) trackbacks(0)
米沢 原始布の旅&宮戸島 復興プロジェクトの旅

震災から4年。宮戸へ行くのも3年半ぶり。
震災前に 宮戸に行ったとき、お世話になった佐藤さんご一家も
今 ようやく仮設から出ることができました。

文化財研究所でお世話になっていた岡村先生が中心になって
毎年取り組まれている 山桜プロジェクト。
在来のヤマザクラの苗を、みんなで植えたり
鹿角で釣り針を作って 海釣りしたり
縄文時代の研究者である岡村先生から、縄文人の生き方 精神性などの
お話が聞けたり
盛りだくさんで とっても楽しいイベントです

松島ゆきが決まって、以前から行きたかった米沢の原始布資料館&米沢織の織元の旅もプラス。
LCCのおかげで、行動範囲がぐぐーんと広がります
原始布資料館では、ご当主からとっても貴重なお話を伺うことができ
織元めぐりでも、探していた栗繭糸とのご対面、素敵な方たちとの出会いがありました



 
 comments(0) trackbacks(0)
インド グジャラート州カッチの旅

念願だった インドの旅

伯父と伯母の散骨&テキスタイルの旅

伯父が敬愛していた船津先生ご夫妻との旅

たくさんの素晴らしい出会いに
ただただ、感謝です

   
 comments(0) trackbacks(0)
2度目の美山

ふだん お休みの合わない 気の置けない ふたりで
プチ旅行。

たのしかった〜!


CAFE 里山舎
http://satoyama-sha.com/cafe.html







ふたたび、新道先生の ちいさな藍美術館 へ


この、茅葺の厚み! この感触たまりません



のどかなこと。


このフォルム。このエッジ。
も〜〜〜ぅ たまりません。


 
 comments(0) trackbacks(0)
比叡山

10月20日sat


みのりさんと比叡山 登山。
叡山電鉄八瀬から松尾坂を登り 西塔〜東塔〜根本中堂コース..

ちょぃと早起きして ちょうどお昼に西塔入り口..な感じ。
紅葉は まだまだでしたが 
草木も虫も空も確実に深まる秋へ準備しているよそおい。


あぁ気持ちよかつたー!
延暦寺 初めて行ったけど 良いですね。
何となくご利益がありそうだったので おばちゃんへのお守りを


みのりさん 東京帰っちゃうの寂しいなぁ...

また3月までに どっか行こうね。 


 comments(0) trackbacks(0)
師匠きたる!

地元で旅した気分。


10月6日、7日

師匠が 興福寺の塔影能を見に 奈良にやってきました。
師匠その2の淑子さんと、共通のともだちの多代さんと。 

エネルギーに押されて知恵熱だしかけましたょ...
ツワモノです(笑


初日は 我が家でお昼を一緒に食べて
(仕事場)を見てもらい
病院へ行って伯母ちゃんと面会。残念ながら熟睡
でも
お手当ての方法を教えてくれた。

(それから実践していると 不思議に浮腫の引きが良い◎)


友達の骨董屋に寄って
凡豆でおじさんと会って
腹を抱えて笑い、バタバタと 興福寺へ乗り込み
神妙な能舞台を前に 笑いの渦からの180度転換を求められ...

開始30分で ポツリポツリ。
衣装と鳴り物が雨に弱いので敢え無く中止。
能のことはよく分からないけど、雨の降る 能も なんだか良い気がした。

これを見に奈良に来たのに残念極まりないのですが
切り替えの早いこと。

おいしいものを食べにいこー
うどんやでお腹を満たし、本日のお宿 武蔵野美術大学寮☆

師匠はOBなので奈良に来たときには利用するそうです


それが なかなか!すばらしい建物◎
仏像修復師の新納忠之介という方のお宅だったそうですが

真ん中に四角く中庭があって、紅白の萩と、柿の木と、
丁寧に手の入った芝生。
そのぐるりの4部屋(蔵も含めて)借りることができるようになっている。

しかも知り合いもOB価格の2500円!☆すばらしい。


お風呂に入って、また4人で笑い通しのしゃべり通し
みなさん齢70を過ぎてらっしゃるはずですが・・
気の合う仲間が集まれば もー女子高生と変わりなく(笑)


快晴の翌朝は 朝食前に きもちのよい朝陽をあびて
二月堂まで お散歩.. 


ツワモノお三方をどこにお連れしようかと
いろいろ考えていたのですが...
名所旧跡は大体行ったからいいわよ といわれていたので
曽爾高原をチョイス 人の多さだけが心配でしたがー

その前に淑子さんリクエストで奈良ホテルへ寄り道して
珈琲タイム。ご満喫で 運転手は一路南へ...


子どもの頃に よく父と来た曽爾高原。
一面のすすき野原が とってもきれいだった。
あのころは 人なんて全然居なかったのになぁ


タイミングよく昼前に到着。みなさま きのこ売りのおっちゃんに
ひっかかって ご購入。「女性は素材が好き」なのだそうです。
たしかに。

すすきはちょうど満開(というのかな..)で
ふわっふわの すすきを 風がなでて通っていく そのかたちが見える

ポカっと すすきが はげたところに、みんなお弁当を広げて
家族のほのぼのがぽつんぽつん
私たちも おにぎり広げて。

のんびり〜


よかった。


帰りは 曽爾に向かってくる大渋滞を横目に
あ〜みんな夕暮れ時をねらって来るんだなぁと。


また伯母ちゃんに会って この日も寝てたけど、きっと来てること
分かってるな、と思った。

またまた凡豆へ。
おじさんと また散々しゃべって散々笑って

駅まで送って 嵐のように帰って行ったお三方。
 


どこ行ったって、このお三方となら楽しめること間違いなし。


 comments(0) trackbacks(0)
東北記録その6

8月9日(火) 晴れ


今朝は 朝食後 先生と海岸沿いを歩く

3月以降、度々訪れている先生は今回新たに
貝塚を発見したのだそう。

それは 宿泊した民宿を出てすぐの高台にあった。
津波で露わになった地層断面に すっと白っぽいスジが
遠目で確認できる。
アサリやカキ、貝紫のイボニシも勿論あるが、結構グルメな貝がたくさん。

かつて此処に住んでいた縄文人も、度々の津波被害に
遭っていたらしい。それは貝塚(=生活拠点)が、はじめは
海岸沿いにあったのが、氷期にさしかかり海水面が下がったにも関わらず
生活拠点をかなり高台に移していることなどから推測できるのだそう。
ちなみに、里浜貝塚はかなりの高台に位置していて、今回
まったく津波の被害はなかった。

それに、島のあらゆるところに お地蔵さんがあって、それは
過去の津波で被害にあった方々の慰霊と、伝承の意味があったという。
島の人たちの迅速な避難行動は、その伝承の賜物でもあったのだ
ただ、時代は過ぎて 漁業を生業とする人々は やはり便利さゆえに
海岸に住むことをためらわなかったのだろう..

過去は今に生かすためにあるんだ と思う。


・・・

今日は 昨日の続きの土器洗いを少しした後、ヤスオさんが
デートのお誘いに^^
先生は菅原さんと今後の打ち合わせ、そして今日の夕方に
私と先生は宮戸を発つことになったので、それまでの間
ヤスオさんが松島、気仙沼などを車で案内してくださるという。


ヤスオさんは実弟を気仙沼で亡くされていた。
カツオの競りで大変な賑わいだったであろう漁港は、
呆然とした感じで まばらな船が何隻かあっただけだった

造船関係の工場を経営されていた弟さんは、その時工場に居て
逃げ遅れたのだそうだ


5月から営業再開していました!と 漁港近くの回転寿司屋のイタさんが
宮戸から来たヤスオさんに いろんな話を聞いている。
この回転寿司屋にヤスオさんはよく来ていたらしく、懐かしい話と
久しぶりの寿司が美味いのとで 上機嫌に話していた。


健康は「目的」ではないんだ、健康は何かをするための「条件」だから!
健全な身体に健全な精神は宿るんだょな
と、今年喜寿になる自分を励まし、健康に産み育ててもらった両親と、
この土地の自然に感謝していることを、話すたびに何度も何度も口にしていた。
それから 行くところ行くところ、ヤスオさんは出会うすべての人に話しかける。
懐っこい笑顔と口上に 話しかけられた人も 思わず笑顔
寅さんみたい。

3月から辛い顔一つ見せない、とヤスオさんのことを先生が言っていたけれど
ヤスオさんは 本当に達観しているのかもしれない




資料館に戻ったら 先生は帰る準備万端。
急いで荷物を背負い 再会を誓って皆さんとお別れ。

ヤスオさん、お母さん、ヒロキさん、島のみなさん、資料館のみなさん、
先生、菅原さん、本当にお世話になりました。有難うございました。



仙台から東京に戻る電車で、この3日間の出来事を反芻しつつ
先生と話す。
先生は 赴任してから3年間で、宮戸の風土記的なものを作ろうと
ヤスオさんたちから この土地に脈々と伝わってきたいろんなことを
聞き出しては書きとめてこられたそうだ。
その貴重な資料が流れてしまったのはとても残念。


今回、私が縄文の研究者である先生との再会を楽しみにしていたのには
もう一つ 聞きたいことがあったからだった。
日本列島で人類がはじめに利用した繊維植物の一つ 大麻について。

原発事故から、エネルギー自給について考えるようになり
バイオマスとして有用な 繊維植物はないかと調べていた矢先
世紀の大発見的に 見つけたのが、大麻だった。

もちろん何年も前から その動きはあったのだけれど、アンテナの全くなかった
私は完全に無知だった。

大麻(=ヘンプ)は日本列島の在来植物であり、人類が 繊維植物を発見して
それを衣食住に使うようになった縄文時代から、大麻は強度のある繊維として
多用途に使われてきた。現在大麻と言えば麻薬的利用の印象しかないけれど、
戦後 日本がGHQの統制を受けるまでは、日本の各地に麻畑が存在していたという。
土地を選ばず、無肥料、無農薬でしかも100日で育つメリットがあるだけでなく
麻の実(七味唐辛子を構成する一味)や油の栄養価の高さ、バイオマスとしての
有用性を主張し、赤星氏を中心とした日本麻協会がさまざまな活動をされている。

奈良晒の文化の残る奈良で、大麻というのは面白いではないか〜
コレダ!!と思った。

日本各地の縄文遺跡からの出土例を御存じだろうし、きっと衣食住のいろんな
部分で取り入れてきたに違いないから そのあたりを先生に伺いたかったのだ。




あまり詳しくは無いけれど..という前置きで、

「繊維植物としては 断然カラムシだと思うけどな その辺に生えてるよ」


カラムシ 苧麻 アオソ ラミー
からむし織りといえば織姫制度で有名な福島昭和村だけれど、
あんぎん織り(縄文時代の織り方)で使われるのは そういえばカラムシだった。
ヘンプは 繊維意外にも多用途に使えるメリットがあるけれど
繊維植物としては 実はカラムシの方が本来馴染みが深かったのだ。


大麻(ヘンプ)、亜麻(リネン)、苧麻(ラミー)、黄麻(ジュート)・・・
現在私たちが普段手にする「麻」繊維のほとんどは おそらくリネンで
日本の高温多湿な風土での栽培は難しいため、ほとんどを
ヨーロッパや中国から輸入していると聞いた

奈良晒についてもう一度調べてみると、原料は大麻だと勝手に思っていたが
それは大きな間違いで、このカラムシだったのだ。
奈良晒だけでなく、越後上布、小千谷縮も然り。

なぜ奈良晒が奈良の特産になったのか、いつからなのかは はっきりしないが
寺社の礼服の需要に応えるところから始まったようだ
織物としての利用が爆発的に増えた江戸時代、カラムシの最大の産地は
越後、出羽、会津で、米沢藩の上杉謙信がビジネスとして、カラムシを繊維に
したもの(アオソ)の専売をはじめたらしい。
その主な出荷先が奈良であり、「奈良町の家で十分の九は『布一色』で渡世している」
といわれるくらい かつては盛んだったようだ。

しらなかった。。


そもそもの着眼であったエネルギー自給の視点からは
随分離れてしまったけれど、カラムシ、面白そうである。


・・・

今回の旅は この後、日本民藝館→神奈川は大磯の師匠のもとへと続く



次につなげるために 記録することは必要だったけれど
すべては これから、だと思う


社会のあらゆる歪みがいろんな局面で出てきているけれど
この震災、原発事故を 20代の日本人として経験するというのは
タダごとではないぞ という気がしている

管から野田に変わっても、東北の眼は冷ややかだ
この国の行く先にどんなビジョンがあるというのだろう
結局、自分たちでやるしかない、みんなそう思っている

自分の描くビジョンは?
国が情けなくても、それでも世界の車輪は見えない力で動くのだとしても、
小さな発信をしていくしかないのだ..と思う。






 comments(2) trackbacks(0)
東北記録その5


8月8日(月) 晴れのち曇り


目覚めて すぐ、海岸にいってみた。

凪いだ海
波にまかせてひと泳ぎ...できたのに。


基盤となるコンクリートだけが家のあった位置を示していて
家の中で一番狭い空間のトイレや風呂がポツンポツンと
虚しくそびえ立っている。

白けた顔で 海はいつものように変わらない仕事をしている感じで
こちらを見ていて、マトリックス的な世界に操られているような...
無力感というか、輪廻というか、果てしなく突き抜けてしまう存在に
襲われる。

こういうとき、究極に自分のちっぽけさを感じる
ネガティブでもポジティブでもない意味で
宇宙の中で 自分という生命体を捉えたとき、それは笑えるくらい
宇宙史を構成する1点でしかないんだな と思う



・・・

今回、ここに来る前にとりあえず いろんな状況を想定して
長靴、軍手、自分の飲食、作業着、などは持参。
何が私にできるのかは ここに身を置いてみないと分からないと思った。

先生は 菅原さんと県庁で会議に出席ということなので
私は資料館でドキアライ・・土器洗いをさせてもらうことになった。

資料館では週末をのぞいて毎日、島の女性達が仕事として
この土器洗いをされている。
この日は、フルメンバーだとおっしゃっていたので、総勢20名ほど。

かつて先生も調査された里浜貝塚の発掘時の遺物が
コンテナー200個分は軽くあったと思う。
野蒜地区の建屋に保管していたところ、津波で泥をかぶって分類も
バラバラになってしまったらしい。
資料館が再管理するのに、もう一度洗いなおす必要があるということで
菅原さんの働きで 雇用が生まれた。


学生の頃、よく発掘のバイトをしていた。
地層の断面や、遺構や出土状況を図面に記録したり、土器洗いをしたり
(実際には土器だけでなく、石器や瓦や木製品など出土遺物全般を洗う)
遺物に出土地点を記録して、パズルのように接合して完成形にして
図面をとったり...結構たのしかった。


だから、土器洗いができるのは嬉しかった。
それに島の女性たちが マタ楽しくて!
結局 土器洗いをしていたんだか、話をして笑いすぎただけなのか
分からなかったけれど・・
初めて会った上に、奈良からぽぃっと来た青二才に どの人も温かい。
きっと過酷な避難生活で それぞれに助け合うこと、相手の状況を感じ取ること
が身体に染み付いている..そんな感じもした。


後ろは振り向かないよ 振り向いたって変わらないっちゃ!
女性特有の強さなのか、明るさなのか 分からないけど
少なくとも、この土器洗いの現場は 無敵な感じだった(!)
私も あえて「今の状況以前」のことは聞かなかった。
それでも 話の合間あいまに いろんな話を伺ったけれど
つよいな〜 つくづく思う。



この日の晩は 夕方に地元の漁師さんが さっき潜って獲ってきた!
と 10cmはあるアワビを下さった!!それを、民宿のおかみさんが
贅沢にもさしみにしてくださり、内蔵までしっかりと頂きました。
とっても、美味しかった。
感謝。





 comments(0) trackbacks(0)
東北記録その4



ここの土地のものは何もないですけど..

民宿のおかみさんが、4膳分の食材を調達して下さった。
この民宿は、ヤスオさんの民宿のあった隣の海岸に位置しているが、
やはり目の前が海、海抜ゼロ。
それでも、ほとんど完全に近い形で無事だった様子。


国からの支援で現金収入が入り始めたことと、家の流された各家庭も
仮設生活が始まったことで、不便さというものはある程度は無くなった様子だった。
買い物は 車を30分走らせれば、スーパーもあるし、ニトリもある。

・・・
貯金だって、一生懸命働いてきたんだもの
家を一軒もう一度建てるくらいはあるょ

だけど 陸の瓦礫はある程度きれいになってきたけどさ
海の中はま〜だ ぐちゃぐちゃだもの。
漁なんて いつできるか分かったもんじゃないさ。

こないだも 東京やら埼玉からダイバーだっちゅう若いもんが
ボランティアで海の中を調査しますって来てくれたけどょ
何にもならないんだもの、わしが潜った方がなんぼかええと思ったょ(笑)


ほんでもよ、海苔はもうあきらめたっちゃ
年齢的にも またイチから(設備を)揃えては・・・無理だでね

だけど、わしは やっぱり漁師だから。
海苔は無理でも 今度は若布に挑戦するって決めて研究中だっちゃ

・・・

問題は 風評被害。
漁業が本格的に再開できたとして、福島以北に広がる放射能の影響が
まだ ここでは誰にもわからない。

話してくれたヤスオさんの甥御さんは、海苔漁師一筋で生きてこられた。
もしも、風評被害で 漁業ができないのなら、いくら不便なく生活できたとしても
自分がここに居る意味は無いと言う。


この松島の絶景は、ここに生まれ、海とともに育ち、海の恵みを仕事に
生きてきたわしらが 守ってきた。
松島は 国の遺産であろうが 文化財であろうが、ここで自然とともに
代々暮らしを営んできたからこそ意味がある




まさにそうだ。

こんな風土が、日本にどれくらい残っているのだろうか。

歴史的に見れば日本人は 地震や津波から何度も何度も立ち上がり
その度に 復興・再生してきて今の私たちがあって。
文化の進んだ土壌で培養されてしまった私たち
自分で火も熾せない、水も調達できない、自分の生きる土地に
どんな恵みがあるのか まったく知らない。
毎日頼り切ってるPCからは 何も生まれやしないのに。
こんな私たちが これから再生する日本は、どんな日本になるのだろうか


国や県は、高台地域に「○○タウン」的な「安全都市」を作る計画を進めつつあるようだが
また 日本の本当に大切な財産を 失ってしまう気がしてならない。



長い一日は終わり 布団で眠れる幸せをかみ締める。

夜の海の音は 少し異様で
あらゆるものを浄化してるような 魂が行きつ戻りつしているような...



明日は資料館で「ドキアライ」。


 comments(0) trackbacks(0)
東北記録その3


仮設住宅は先に電話で聞いていたように
やっと7月末に整い、入居が始まっていた。

それまでの5ヶ月間、島の小さな小学校の体育館での生活。
どんなに大変だっただろう

だけど、ヤスオさんはちっとも変わっていなかった。
サングラスにカウボーイ形の麦藁帽をかっこよく被って登場。
まだいろんな所から来てくれる炊き出しボランティアの方たちを
見送りに出てこられたところだった。


あ〜!ひしこさん、よ〜く来てくれたぁ
今朝ね、野菜頂いたよぉ お母さんと、これなんていう野菜だベなって
ご飯といっしょにね、おいしかったょ
(キタさん畑のツルムラサキのことだった)

お母さんも元気そうでよかった。
地震直後 小学校に島民のほとんどの方が避難はしたものの、
島をつなぐ唯一の橋が落ちてしまい島は孤立状態になっていた。
そんな矢先、お母さんがヘリで病院へ搬送されたと聞いていたので
元気そうな姿に一安心。

非難当時約900人分のおにぎり握りで疲れ果ててしまって
倒れたのだそう。

ヤスオさんの変わらない明るさは、お母さんのためなのかな、と今になって思う。
お母さんは やはり疲れと、傷と、不安と、いろんなものが心の中に
渦巻いてるように感じた
瓦礫処理の仕事を終えた息子さんが、島を車で案内してくださったのだけれど
民宿のあった場所から 海を眺めるお母さんの横顔が忘れられない。


ひとつ良かったことは、
車で案内していただいているときに、思いがけずヤスオさんの愛船が見つかったこと!
船番の情報で、遠く離れた海岸に漂着していたのは聞いていたそうだが
あきらめて放棄申請したばかりなのだと言う。
あの津波の波をくぐり抜けたとは思えないほど船はきれいで、ヤスオさんもお母さんも
息子さんも、本当に信じられないと喜んでいた。
まだまだ乗れる船だけれど、今の状況では管理ができないから、放棄の取り消しは
しない、漁協で使ってくれるなら、船も本望だろう。と。

ヤスオさんが 愛船をトントン!とたたく手が、何とも なんとも言えず..
相棒への今までの労わりと、愛情と、姿を見せてくれたことへのうれしさと..

船もヤスオさんに、「ありがとう」を言うために此処に姿を見せたに違いない。


この日の晩は、営業を再開している数少ない民宿で、先生とヤスオさんと、
海苔漁師のヤスオさんの甥御さんと酒盛りをした。








 comments(0) trackbacks(0)
| 1/2 | >>